Daisukeyの日記

安井大輔の日記です。

深夜徘徊

トンネル同様踏み切りも異界の入り口だ

 江戸川乱歩じゃないが、散歩は夜に限る。

 深夜の静かな道をうろうろしたり、狭い坂や階段を上り下りしていると、よく見知った場所のはずなのに、そこがどこか知らない土地に入り込んでしまったかのような錯覚を覚える。泣きたくなるようないたたまれない気持ちになってふと後ろを振り向くと、薄暗い四ツ辻の向こうからひょっこり大きな顔だけがこちらを覗いていたり、手首がいくつもぽとぽとと降ってきたり、他人の屋敷の上に人影が覆い被さってたりしていてもおかしくないような気がしてくる。後ろを見ても何もいないのだが、振り向いた瞬間に隠れてしまっただけで、わたしの背中を指差してクスクスと声にならない笑い声をあげていたんじゃないか、そうだ、笑っていたに違いない。そんな妄信に囚われないでもない。


 夜の徘徊は想像力が刺激されるなんて言う人もいるけれど、自身の感覚に即して言えば「そうじゃない」。刺激される想像力という説明をすると、自分の中にあるものが発現してくるように思えてしまうが、そうではなく、imaginationやcreationに属する力はむしろ自分自身の内側に何かが「入ってくる」という感じに近いのではないか。自分が「歌う」というよりも歌が自分の中を「通っていく」という感覚とでも言おうか。「わたし」というものは力強く確固たる姿で立っているものではなく、はるかにしなやかで揺れ動く不定形なもので、色々移ろっていくものではないのだろうか。むしろ「自分」には実体はあってないようなもので、あるとしてもそれはたとえるならばフィルターみたいな装置もしくは概念製造機関で、日々そこになだれ込んでくる種種雑多な情報を受け止め、そこに引っかかった諸々が出力されており、その出力が一般的な意味での「自分」とされているだけなのではないか。
 人は己のコントロール下に従って、思ったり考えたりしているように思いがちではあるけれど、人間全体に共通する集合的な意識が存在するだけで、個人や自我というのはその部分を無理やり取り出して名前をつけているだけなようにみえる。意識と言ったが、わたしの感覚が確信をもちうる範囲では(自分で書いてて何だけど感覚が確信をもつという言い方は変でおもしろいなと思う、けれども今脳内で(正確には身体で!)流れている意識をより実態に即して説明しようとするとこういう言い方になる。思考と同様、感覚にもfuzzyなところからtightなレベルまで種類があるはずだ)いうほどしっかりしていない、本音を言えば意識というのも言いすぎな観がある、ただ「流れ」だけがあるというのが正直な実感だ。

 以上、ざっと書いたようなことごとは、以前から考えとしては知ってはいたことなのだけれど、このごろ実感として身体に染み入ってきている。