休暇

眠り猫。昔は憧れたが今はそうでもない

 今月は有給と夏休みを取ったので、17日から25日まで九連休となった。第二のGolden Weekだ。

 休日はその前の日の夜が一番楽しい。特に次の日の予定が何も決まっていないとき、寝床で「明日何をしようか」と考え出すと興奮してくる。明日が休みだと思うだけで意味もなくわくわくできる。今週は、だから都合八回も寝る前の充実した気分が味わえるわけだ。我が性格ながら大変けっこうなことだと思う。

 学生の頃はひますぎて、かえってこんな風に思うようにはなっていなかった。卒業して就職したら学生時代でのほのぼのした幸福に満ちた時間は過去のものになり永遠に失われるんだと、少々悲観的に構えていたのだけど、適度かつ適量な労働は経済状況だけでなく休暇をも充実させるということに気づかせてくれたのだから、社会人になるのも悪くない。

 学生のころのほうがよかったと僕の周りの(現在、社会人である)人間はよく口にするが(しかし社会人としての生活を営んだことのない学生までもさも当然であるかのようにそう言うのは不思議なことだ)、そんな思考は「時間のないサラリーマン」というレッテルを自らに貼り付け自分たちのpositionを貶めることにしかならないし、よりよく生きる為の試行錯誤を放棄しているように思われる。

 (百パーセントそうだと言い切れはしないのはもちろんだが大概の部分では)人の幸/不幸、満足/不満は己の意志によって決められるのではないか? アウシュビッツを体験したV.E.フランクルは「それでも人生にイエスと言う」を書いた。たとえが大袈裟なのは百も承知だけど、大なり小なり同じことはどこでも当てはまる。満ち足りるということを知っている人は幸福である。

僕は……たぶん………しあわせだ。