遠方より朋来る

子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。(し、のたまはく、まなびてときにこれをならふ、また、よろこばしからずや。ともあり、えんぽうよりきたる、また、たのしからずや。ひと、しらずしてうらみず、また、くんしならずや。)*1

というわけで京都から友達がきた。昼前に来るはずの彼が来ないので待っているうち、以前彼と交わしたやり取りを思い出した。

友人M
ソルジェニーツィン短編集 所収より2箇所引用します。
特に後半は超長文ですが大好きな文章です。
「この世に二つの謎あり。
なんぴとも生まれしときを覚えず、死するときを知らざればなり。」
「この女のマトリョーナ評はあんまり芳しくなかった。とにかく、だらしがなかったし、家財を揃えようという欲もなく、経済観念がまるっきりなかった。なぜか餌をやって育てるのを嫌って、豚を飼うこともしなかった。それにばかのお人好しというか、無償で他人の手伝いばかりしていた
(実は、マトリョーナを思い出すきっかけというのが、犂で菜園をおこすときに、もう一人手伝いを呼べなくなったためであった)。
 いや、マトリョーナの誠実さや純朴についてさえ、この義理の姉はそれを認めながらも、やはり軽蔑と憐れみの口調で語るのだった。そして、その時になって、つまり、義理の姉から芳しくない批評を聞かされてはじめて私の前には、同じ屋根の下に暮らしながらも、遂に私が理解できなかったマトリョーナの像が浮かび上がったのであった。
 たしかに、そのとおりだった!−どこの農家にも豚はいる! が、マトリョーナの家にはいなかった。この世で食べることしか知らない豚ーそれを飼うこと以上に楽な仕事があろうか! 日に三度、食べ物を煮てやり、豚のために生きーあげくの果てに屠殺して、脂身を自分のものにする。
 だが、マトリョーナは、自分のものにしなかった…家財を揃えようともしなかった…品物を買い、そのあとで、自分の生命よりもそれを大事にするために、あくせくするようなことはなかったのだ。きれいな服をほしがろうともしなかった。醜いものや悪しきものを美しく飾り立てる服を。自分の夫にすら理解されず、棄てられたひと。6人の子供をなくしながらおおらかな気持ちをなくさなかった人−このひとは死に臨んでなんの貯えもなかった。薄汚れた白山羊と、びっこの猫と、ゴムの木…
 われわれはこのひとのすぐそばで暮らしておりながら、だれひとり理解できなかったのだ。このひとこそ、一人の義人なくして村はたちゆかず、と諺にいうあの義人であることを。都だとて同じこと。われらの地球全体だとても。」


Daisukey
僕もこの話は好きだが、その感情にはいらただしさも伴う。もちろん自分自身に対してだ。
 僕はこの部分↑を読み、そしてまた聞くたびに、いつも目の前に「罪と罰」のソオニャが立ち現れてくるのが見える。もちろんマトリョーナは彼女のように聖書を読み聞かせるおせっかい(!?)なぞすることも無かっただろうが。そんなことは問題ではない。問題は彼女たちに共通する人間のある種の原型とでも言うべきものだ。
 ラスコオリニコフが大地に接吻する瞬間、彼がそして読者がなぜ打ち震えたのか、思考を進めてさらに考えてみたとき、僕は一つの空恐ろしい事実に気づかされる。自らが彼女になれないことが厳然と分かっているからこそ、彼は震えざるをえなかったのだ。
 彼女は自身の価値など皆目知らない。その価値が分かるものは分かるがゆえにこそおのれに、おのれの絶望におののかなければならない。感動の裏にあるのは常に戦慄だ。
 広場で口からでかかった懺悔の言葉を嘲笑で消してしまう冷ややかなラスコオリニコフの視線が自身をも貫いているのを知ったら人はもう安穏とした日々には戻れない、あとは恐怖がついて回る。

 警察署の階段を上がる彼はそこで思い掛けなく、彼の秘密を知っている唯一の敵手スヴィドゥリガイノフの自殺を耳にする。まだ戦ってみる余地はある。彼は引き返す。と出口のところで、彼の後を見え隠れにつけて来たソオニャの蒼白な絶望した顔に、バッタリと出会う。彼はニヤリと笑って再び階段を上がる――
(小林秀雄ドストエフスキイの生活』, 1964年改版, 新潮文庫)*2

 すべてが終わり平穏無事な牢獄で「自由を獲得した」彼はそれでもなお!「救われていない」。
 『罪と罰』という言葉の意味や正教、改心などとおりいっぺんの批評の対象テーマなんかよりも、その空恐ろしい心境のほうにはるかに僕たちをひきつけてやまぬ何かがある。

 正気を保つのに、どうしてこんなにも狂気が必要なんでせふ!

 そら! そこにラスコーリニコフがいるぞ。ほら! お前の中にも。
 恐るべき慧眼、戦慄すべしドストエスキヰ

*1:論語 卷第一『學而第一』

*2:

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)