最近の読書の話をしましょう。
今週は火曜日に日吉で買ったヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を読んでいます。アウシュビッツに入れられた心理学者の体験記です。
大体いつも何を買うか決めてから、もしくは手帳に記している「(古)本屋における探索対象人名・書籍名リスト」から選びながら、本屋を巡るようにしている僕としては珍しく、ふと手にとって思わず買ってしまったという行為に出たものです。
僕は読書のさい「こいつ(≒自分)はどうしようか、どうなっていくのか」となりきるのと同時に「ふんふんなるほど、うまいなぁ」と全体の構成を俯瞰していることが多いです。感情移入しながらもどこか離れて対象をみる、登場人物の主観と自己の客観を行き来する読み方をするわけです。しかし今回はそうはなりませんでした。否が応にも意識が著者の内部に引きずり込まれる感じ、何ともいえない気分(もしかしたらこれが本書の裏書きにあった「言葉にならない感動」という奴かもしれません)になりました。
「この感情はどこかで見知ったものであるぞ」と記憶を辿ってみると、去年読んでいたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき(特に大審問官の章)感じたものと同種のもののようでした。
「さて、こいつはどういうことだろう」とこの(圧倒されるしかないという意味での「感動」の)成立条件についてさらに考えてみると、両者に共通するのは極限状況において「人間とは何か」という究極の問い掛け(思いっきり意訳すると「(人間とは)どのように振舞う(べき)ものなのか」という問い掛け)をされるというところにあるようです。まあ僕自身の心中にのみ成立する条件かもしれないが。
どうやら(僕の考える)人間の最も美しい姿とは最も残酷な場面で(のみ!?)発現するのやもしれません。闇がなければ光もまたないように、栄光と悲惨は同時に成り立つもの、いやまずは悲惨があるといえるでしょう。
しかもこのアンビバレントな両輪は「平和と退屈」という車輪とも対立項を構成している気がします。どちらかを選べ!と聞かれたら、「こっち!」と即答したいところですが、正直なところどう答えることやら自分でも分かりません。
さて、結構な長文を書いてしまいました。ナチスと強制収容所ものにどうも僕は弱いらしい。
小学生時、父の本棚から借りたフレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』*1から始まり、
『アドルフに告ぐ』(手塚治虫の傑作)*2
『石の花』(第二次大戦中のユーゴスラビアのマンガ)*3
『劇画ヒットラー』(水木しげるの伝記マンガ)*4
『ゴールデンボーイ』(スティーブンキング原作の映画)*5
『ショアー』(アウシュビッツ体験者に延々インタビューした映画)*6
『シンドラーのリスト』(説明不要でしょう)*7
『愛の嵐』(シャーロットランプリングが収容所元所長と対峙する映画)*8
『ヒトラーの側近たちⅠ・Ⅱ』(NHKでやっていた海外番組)*9
『健康帝国ナチス』(ナチスの健康政策と現代先進国の厚生政策との類似性・共通性を検証・分析したもの)*10
ハンナ・アーレント、ジョルジュ・バタイユの一連の著作
:
:
という具合に連綿と続く書籍行脚と映像遍歴を振り返ってみると、ヨーロッパのナチス(より広義にみればファシズム)とその背後の西洋文明に関する興味以上のものが自らにあるような気がしますが、なぜここまで「(極限状態における)人間」について考えさせられるのかという疑問と、本屋で手に取るという行為を促した無意識に繋がるものとは何だろうと、過去を振り返るとそのきっかけは、小さいころどこかで聞いた
「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。」
ということばに身震いした体験の内に潜んでいるような気がします。
実はこのフレーズは『夜と霧』の中にあるものだったのです。だからこの書は僕のある部分のアルファであり(現時点での)オメガでもあったというわけです。
*1:
*2:
*3:
*4:
*5:
*6:
*7:
*8:
*9:
*10: