語らせる映画

ポスター

 『ホテル・ルワンダ』を観てきた。
     →映画「ホテル・ルワンダ」
 シアター渋谷映画館は、超満員で夜の部の整理券も朝なくなったくらいだったので川崎のhttp://www.cinecitta.co.jp/index2.htmlのレイトショーに夜中シャカシャカ自転車で向かった。終わるのが12時過ぎという下手すると終電逃がす時間なのでさすがにすいていた。


 主人公のホテル支配人のポール役のドン・チードルが素晴らしい。家族だけ助かればいい、という気持ちだった彼が人間として恥じない生き方をするために、ホテルに逃れてきた人々を匿うように決心していく心境変化の過程が泣かせる。もっと切ないのは、「(強姦殺戮なんでもありの)民兵がホテルになだれ込んできたら子どもといっしょに屋上から飛び降りるんだ」と妻に頼むシーンだが。

 だけど、そういうヒューマニスティックな感情の前に僕自身のうちにあったもの、つまり初めに思っていたことは、ラジオに煽られて虐殺集団と化したmilicia(民兵)たちに対する直接的な怒りと反感、すなわち「この蛮族蛮民共が!」という感情だった。

 恐れ、慄きの速度は人間のありとあらゆる感情に先行する。安堵の感動も落涙もすべてはそのあとのことだ。

 アフリカは貧しく教育が行き届いていないから、などといってはいけない。関東大震災のさいの朝鮮人虐殺を思い起こそう、あれは我々自身のうちなる問題でもあるのだ。それ(=ジェノサイド)はなんらかのきっかけでどこでも・だれにでも「おこりうる」ことだと考えるほうが適当だろう。

 (オーソドックスでも)良い映画が売れるのは結構なことだが、感想の結尾に散見する「この悲劇を忘れてはいけない云々」と簡単に言うのはどうかと思う。なんとなれば、個人の意識に限っていえば、忘却とは排泄や睡眠と同じく生理でもあるから。記憶を保ち続けるのはもちろん大切だが、そこには人に伝えるためという他者への行為以外では自己への何らかの促しという意味がある。だが、ここで見逃していけないのはそれはあくまで「きっかけ」だ、ということだ。「きっかけにすぎない」とすると、何らかのアクションを起こさないと駄目だという切捨てになってしまうが、ここで言いたいのはそういう単純なことではない。
 大体多くの個々の問題は、特に差し迫った自分の問題ではなく今映画のような「外部」の問題である場合、書いたり話したりしてしまえばそれで満足して「(現実とは別に己としては)決着がついて」しまいやすい。秘められたる焔を消さずに見つめ続けること、その場で自らのうちに宿ったものが己のうちに「ありつづけること」「あったものを再び甦らせること」を映画館で得た「点」を己の日常の「線」に伸ばしていくこと。それらを自意識に基づいて敷衍していくこと。退屈な日常のうちにひっそりと沈ませておくこと。静かにひけらかさずに、でも殺さずに灯らせておくこと。危機的状況に面したときにこそその灯しが発揮される(けれどもそのような状況は大抵は悲劇なので発揮などされないほうがいいのだ、本当は)。こういった自覚を「耐え続ける苦行」が(僕が言う)真実の意味で忘れてはいけない、ということだ。

 よく使われるフレーズにも自分なりの流儀で味をつけるのが、映画感想に当為命題を盛り込む場合に求められる「べき」literacyてものじゃないかな? 
 

映画について書く暇があれば、映画を見に行ったほうがよいというひとがいるかもしれない。しかしわたしは映画をもう一度見るために書く。書くことは、よりよく見ることだからである。
    加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』、筑摩書房、二〇〇四年

 映画を見るものは映画を診るものでもあるべきで、良い作品を他者に語るときはそのダイアローグには未見の観客に作品を診ることを促すものがある必要がある。そしてそれは自らの映画鑑賞史に新たな一ページとなるものでもなければならない。
 というわけで僕も映画について命題的なるものを書くのならば(あんまり格好の良いものじゃないがついそういうことを言いたくなるような作品もあるのだ)、「忘れてはいけない」なんて(安易に過ぎるという点で)自己欺瞞・防御的な言い方は止して「自身に考える能力を有するという自負があるものは、その思考をさらに進めるべきであろう」というふうにしようとおもう。