読書会をしよう、町へ出よう


 大学に入ったのに、授業もクラスメートも退屈だ。サークルもバイトもイマイチ・・・。五月病と称されるこの状態。実は病気でもなんでもない、極めて正常な反応であって、本来大学は学生にとってはつまらないものだ。ただし、自ら欲するところのあるものに道は開かれる。そのための時間(だけは)十分にある。では、その時間をどう活用するか。
 読書会をしよう
 大学は基本的に研究機関であり、多くの教員は自分の業績をあげることを第一に考えており、ポケゼミや演習を除き大多数相手の授業では教育にならない。だから心ある学生は図書館その他の施設を使って自分で勉強する。でも一人でははりあいがないし、長続きしない。というわけで、読書会や研究会を仲間とともに開こう。「自主ゼミ」「読書会」「輪講」「輪読会」と呼び名は違えど同じもの。
 まずはあまり難しく考えずに企画しよう。何か勉強したいことがあれば、適当な本を選び皆で読むのが一番。適当な本が見つからないときは、詳しそうな教員に尋ねればよい。人を集めるには、掲示板に貼り紙をしよう。人数は四、五人ほどが適当。二人では話がとぎれたりして微妙な雰囲気になってしまうこともある。七、八人となると人数が多すぎて十分に議論がしにくい。時間は空きコマか、夕方授業が終ってから。
 一番のポイントは期間。永続的にやろうとするのは避けた方がよい。テーマとだいたいの回数を決めておいて、気が合わなかったときも自然に消滅できるようにしておくのがコツ。その方が新規に参加しやすい。
 『ジェイン・オースティンの読書会』(白水社)は、アメリカの田舎町で年齢も性格も異なる6人の男女がオースティンの残した6冊を語り合う小説だが、読書会は普段の付き合いでは接することの無い個性の人と出会う場ともなりうる。映画にもなった本作では、ホスト役の人の家で持ち回りで会が開かれるけれど、仲良くなったらそんな工夫も楽しい。

ジェイン・オースティンの読書会

ジェイン・オースティンの読書会

 町へ出よう
 自主的な学習からであろうと書物で得られる知識は結局、学問の枠組みに回収されてしまうものなのかもしれない。その点、現実というなま生の体験に勝るものはない。内部に篭り現実から遊離するのとは反対に、外部の現実に密着しようとするのも一つの道である。
 「書を捨てよ、町へ出よう」かつて、寺山修司はこうアジって挑発した。では今、町へ出ることはどのような体験となるのだろうか。
 路上には、現在の風俗・生活がかもし出す風景がある。一世を風靡したトマソン(無用の長物としての建築付随物)ほどでなくとも、ふだん何気なく通り過ぎる路上を注意深く観察するだけでもさまざまな過去と現在が見えてくる。『路上観察学入門』(筑摩書房)は、モノを通じて街の隠された表情をいきいきととらえる方法を見せてくれる。
路上観察学入門 (ちくま文庫)

路上観察学入門 (ちくま文庫)

 風景を前にして夢想に耽る詩人の感性はもちろん大事だが、ざらざらした現実世界の中へと飛び込む必要もある。ヤクザ、ホームレス、ワーキングプア、オタク・・・巷にはあなたのものとは異なる現実世界を生きる他者たちが数多く存在する。現在、町へ出ることとは彼らの世界を覗き見ることといえなくはないか。その際『暴走族のエスノグラフィー』(新曜社)をはじめ多くの優れたルポやノンフィクションが参考になる。さらに京大生の体験記としては『フィールドワークへの挑戦』(世界思想社)では振売りから銭湯まで、さまざまな他者や異文化と交流する様子が描かれる。
暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛

暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛

フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門

フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門

 何より大切なのは出て行って自分の目で見ることだ。ただし、寺山はこうも述べている。《「書を読むな」ではなく、「書を捨てよ」であることに留意しておく必要があります。これは、「知識」の超克であって、「なま」であることを知識に先行させようというものではないことです。(・・・)ぼくは、知識を軽蔑しているのではなく、知識による支配を否定しようとしているのです。》
 評者としては、あるフィールドワーカーが述べている言葉を最後に贈りたい。
「書を持って街に出よう」