シュルレアリスムの誕生と発展


 未曾有の大破壊をもたらした第一次大戦終結ともに始まった一九二〇年代、文学や芸術の世界では破滅した過去を断ち切りまったく新しいものを創りだそうという運動が始まる。その名はシュルレアリスム。戦時中に起こったダダに一つの起源を持つ、若者たちの反抗は、既成の秩序や常識を徹底的に攻撃し破壊した。しかしシュルレアリスムは単なる過去の否定にとどまるものではなかった。否定ではなく創造こそが目的であった。
 シュルレアリストたちが無意識や夢、偶然に基づき、生み出そうとしたのは超現実surrealという思想であり、その方法は自動記述であった。彼らの活動は、これまでの人間中心主義的な主観を排し、モノ自体を客観的(オブジェクティフ)に示そうとしたものであり、厳密な理論的探求をめざす、実験をともなう文学・芸術運動であった。(よく誤解されているが、シュルレアリスムは現実を超えて離れる非現実という意味ではなく、日常生活で何気なく見過ごしてきた現実のなかにあるものを見つけようとする試みであり「強度の現実」「過剰な現実」と解されるべきものである。詳しくは『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)をどうぞ。)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

 シュルレアリスムの活動とその影響は多岐に渡るが、ここでは入門として文学と芸術における代表格をみてみよう。
 文学のシュルレアリスム
 生涯を通じてシュルレアリスムの中心軸であったアンドレ・ブルトンは一九二四年の『シュルレアリスム宣言』(岩波文庫)で、精神分析の知見に基づき、夢と狂気の解放、想像力の自由を主張し、真の生、真の自由にいたる革命の必要を訴える。
シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 彼と仲間たちが創始した自動(オート)記述(マティスム)とは、眠りながらの口述や、可能な限り高速で文章を書く実験などのことだが、それにより理性に邪魔されずに無意識の世界を反映した詩や文章が出来上がった。そこにはストーリーやキャラクターといったいわゆる小説の構成要素はない。とはいえ『溶ける魚』『ナジャ』(岩波文庫)などには、日本のつげ義春の『ねじ式』(小学館文庫)に通じるような不思議な味わいがある。主語がなくなり、私が私でなくなるような、モノとモノ、概念と概念だけの関係が出現してくる。しかしそれは、通常の記述の延長にあり、現実と連続した世界でもある。
ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

ねじ式 (小学館文庫)

ねじ式 (小学館文庫)

 美術のシュルレアリスム
 一方、自動記述の手法は美術の領域にも応用されていく。ブルトンの盟友でもあったマックス・エルンストは、コラージュ(切り貼り)やフロッタージュ(こすり出し)、デカルコマニー(転写)などを駆使して、数々の絵物語を生み出していった。これらの手法は完成形の予想が不可能である。それがゆえに、製作者の意図や支配を離れた事物の世界が展開される。
 古い版画をコラージュした彼の作品『百頭女』(河出文庫)では、一九世紀の都市を舞台にモノの霊が跳梁跋扈する物語が描き出される。反発、共鳴が入り混じったイメージの奔流により、想像力の限界が拡大されるような気分になる。そこでは、事物や情報の要素に従事する属性たちの呪縛が解放され、理性や知識の所属する場所が変更を迫られている。読者はこれまでの常識を覆されモノそのものの世界へといざなわれていく。
百頭女 (河出文庫)

百頭女 (河出文庫)

 時代を超えて
 このようにシュルレアリスムでは、現実というもののもう一つの姿をかたちにしようとさまざまな創意工夫を積み重ねてきた。これらの運動を時代背景とともに読み解く『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫)から浮かび上がるのは、シュルレアリスムの持っていた超時代性とでもいうべき特徴である。主体から客体という潮流は、一九六〇年代から続く知の転換としての構造主義にも通じる道であり、文学・芸術の分野に限らず現代世界に生き続けているのである。
ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

 とはいえ現実離れした疑似現実(ヴァーチャル・リアリティ)全盛の時代、逆に現実が見えにくくなっているのも事実。だからこそ、見えなくされている現実を取り戻すために、今一度シュルレアリスムの古典を紐解いてみるのはどうだろう。