Daisukeyの日記

安井大輔の日記です。

舌の快楽


 嗜好品の世界
 原始時代の人間は自然から得られる資源に依存して暮らしていた。狩猟と採集と漁撈が不可欠な労働であり仕事であり、それらは趣味ではなかった。しかし約一万年前の農耕開始から、農業が最も重要な仕事となり、狩りや木の実集め、魚釣りが遊びと楽しみの意味を持ち始める。その過程で、生存にとっての必需品でない楽しみとしての摂取物があらわれる。「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物(広辞苑)」すなわち嗜好品の出現である。
 以来、煙草、酒、茶、紅茶、コーヒー、チョコレート等、世界各地でさまざまな嗜好品が発達してきた。これらはとりあえず口に入れる飲食物である。だが、定義からわかるように栄養・エネルギー源または薬としては期待されていない。しかし「ないとさびしい感じ」がするし、摂取すると精神(心)によい効果をもたらし、人と人の出会いや意思疎通を円滑にするものと考えられている。これらから「嗜好品」とは「遊びと楽しみの要素をはらむ飲食物」といえるだろう。
 では嗜好品という日本語はいつ、どのように誕生したのか。嗜好品文化研究会の『嗜好品文化を学ぶ人のために』(世界思想社)によると、古い用例では森鴎外の短編『藤棚』にあるらしい。そこでは、毒にも薬にもなる嗜好品を根本から無くそうとしては必要なものまで遠ざけてしまうという物言いが出てくる。急速な都市化や近代化によって緊張を強いられる人々の心身を緩めるものとしての飲食物の要請を鴎外は「嗜好品」という造語で表現したのだ。

嗜好品文化を学ぶ人のために

嗜好品文化を学ぶ人のために

 一方、現代の都市生活者は緊張緩和よりもシャキッと覚醒するために嗜好品を用いるようだ。同研究会の『現代都市と嗜好品』(ドメス出版)は、ソウル、上海、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスの人々に嗜好性の調査を行った成果である。そこでは特にコーヒーを毎日のように楽しむ人の比率が非常に高いという結果が出ている。多忙やストレスにさいなやまれる現代人は、嗜好品にリラックスや癒しを求めそうなのに、逆に「気つけ」の効果を求める矛盾がみられる。
現代都市と嗜好品

現代都市と嗜好品

 同様な矛盾撞着は他にもある。現代人は嗜好品に「健康」と「自然」を感じる。しかし酒や煙草をはじめ今や嗜好品の多くは大量生産される工業製品である。世界ではグローバリゼーションのため均質化が進んでいるとされる。嗜好品の大半が工業製品なのもその証左であろう。川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)では、このように世界中で楽しまれる嗜好品を「世界商品」と呼ぶが、一地域の嗜好品だったモノが世界商品化していくプロセスには刺激を求め続けた西洋の歴史が大きく関わってきた。ここでは、一例としてチョコレートをみてみよう。
砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

 チョコレートの世界
 チョコレートの原料となるカカオの起源はメソアメリカにある。同地でのカカオについては、八杉佳穂『チョコレートの文化誌』に詳しいが、古来は実が心臓に似ているかたちからすり潰した豆に水と食紅や唐辛子を混ぜて宗教儀礼に用いられる王侯の飲み物だった。ヨーロッパとの出会いはコロンブスの4回目の航海のときである。欧州人にとって当初この飲み物は「豚に適した」吐き気を催すものだった。スペインの征服により旧来の支配体系崩壊に伴いカカオも庶民にも飲まれるようになった。先住民とスペイン風の飲み方が混ざり、砂糖、アニス、ヘーゼルナッツやシナモン、バニラ等を入れて飲まれるようになり、玉ねぎやラードなどを加えた「モレ」という料理用ソースも作られた。同時に植民地時代を通じカカオは貨幣としても流通していた。
チョコレートの文化誌

チョコレートの文化誌

 「新大陸」から欧州にもたらされた当初は薬扱いであったが、スペイン王女とフランス王の結婚から広く普及し始める。シヴェルブシュ『楽園・味覚・理性』に描かれるように、カトリック地域にはチョコレートハウスが一般化し、プロテスタント地域へのコーヒーハウスの普及と好対照をなした。そして十九世紀、オランダでの板チョコとスイスでのミルクチョコレートの発明から現在のような形態が完成した。苦いコーヒーが男性のものとされたのに対し、甘いチョコは女・子どものものとなった。
楽園・味覚・理性―嗜好品の歴史

楽園・味覚・理性―嗜好品の歴史

 嗜好品は工業化による均質化の波の中にある。しかしチョコの歴史が語るように、一方で時代ごと、地域や都市ごと、年齢層や性別による違いも見つかる。このような身近なモノから文化(とその差異)を読み解くこともできるのである。