悪いことはなぜいけないのか


 麻薬の例にあるように、一般・具体的な善と悪の境界は歴史的・社会的に形成されてきたものであり、いつの時代にも共通する基準があるわけではない。とはいえ「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われた時に、多くの人がもつであろうギョッとした感覚、理屈抜きに悪いことだと感じてしまう意識がある。その「悪い」と思ってしまう意識の延長に、殺戮マシンに顔をしかめ犯罪記事に眉をひそめる行為が生まれる。しかしただ単に悪いものは悪いと言っているだけでは解決にならない。悪とラベルを貼られた対象を糾弾する前に、その悪に対する道徳感情を問うことも重要だろう。「悪いこと」とはどういうことなのか? 悪いことをしてはいけないというテーゼはどこから生まれるのか? そのような問題を考えるのが倫理学であり、多くの哲学者達がこの問題に取り組んできた。その中からいくつか紹介しよう。
 カント倫理学の悪
 例えば、中島義道の『悪について』(岩波新書)ではカント倫学を悪の側面から読み解く。カントによれば、人間は「自然本性からして」悪である。どんな善人も悪である。

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

 カントは人間の行為を分類し道徳的に善い行為を定義することで、逆に悪を定義する。その要因とはなにか? それは行為の動機にある。例えそれが適法行為であったとしても、その動機によっては悪になる。つまりある行為がどんなに適法であっても、行為を為す意志に自己愛が含まれる限り、道徳的善を実行したことにはならない。非適法行為を斥け、適法的行為を実現している人びとのほとんどは、外見を維持しているだけに過ぎない。彼らは、おうおうにしてみずからを道徳的にも善いと信じているからこそ、その正体はいっそう道徳的に悪であるという。むしろ道徳的に悪とされる行為を実行したもの、『罪と罰』(新潮社)のラスコーリニコフや『こころ』(岩波文庫)の先生こそが(道徳的に善いというのではなく)悩み続けるという意味で、道徳的であるということになる。しかし、現実問題自己愛の全くない道徳行為はありえない。人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励し、他人の幸福を望み他人に親切にすればするほど、必然的に悪に陥る。究極の矛盾ともいえるこの「根本悪」と呼ばれる問題をカント=中島は追っていく。
罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

こころ (岩波文庫)

こころ (岩波文庫)

 いけないことはなぜいけないのか
 倫理が極めて人間に近しいものである以上、カントのような厳格主義以外にもさまざまな立場を取りうる。大庭健・安彦一恵・永井均編『なぜ悪いことをしてはいけないのか』(ナカニシヤ出版)では「人間はなぜ道徳的であるべきなのか」という問いをめぐり編者たちがガチンコの論争を展開している。
なぜ悪いことをしてはいけないのか―Why be moral? (叢書 倫理学のフロンティア)

なぜ悪いことをしてはいけないのか―Why be moral? (叢書 倫理学のフロンティア)

 大庭は、自分を在らしめる他者という存在を軸に、道徳に従うべき理由について論じている。安彦は、合理性という観点からいわば市場主義的に道徳の優位を論じている。永井は、ある人物が所属すべき共同体から疎外されているという仮定の上でこの人物にたいする道徳の無効力を論じている。
 編者たちの議論ははっきりいって構造的にすれ違っている。だがこのすれ違いを通して読者自身が「道徳的」とはどういうことか、「なぜ道徳的であるべきか」とはどういう問いか、とみずから考えるように誘われていく。その意味では、編者たちの意図したとおりに、読者が「改めて考えはじめ」(まえがき)、論争に「巻き込まれ」(あとがき)ていく魅力に満ちた本である。
 フォー・ビギナーズ
 この二冊はいずれもお勧めできるが、多少は人文学の素養を必要とすると思うので、蛇足かもしれないが入門として他にも紹介しておこう。前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書)では、トンカツ屋のおやじの仕事ぶりから倫理を説く。既に知識としてある程度、倫理について聞きかじったことのある人には加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)がいいかもしれない。臓器移植や人工妊娠中絶など現代のトピックにまつわる議論を網羅している。
倫理という力 (講談社現代新書)

倫理という力 (講談社現代新書)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)