旅行記は今


 旅人は単なる移動者ではなく、言葉を宿した移動者だった。たとえば芭蕉は『奥の細道』(岩波文庫)にあるように、旅立ちに際して感興を即興的に詠むことで俳句という技芸の内実を旅の姿に近づけようとした。現代の旅人も、あるときは観光客、あるときはジャーナリスト、あるいは亡命者や流民となっても、彼らの経験に立った言葉を生み続けている。旅人はだから、旅と言葉のあいだを認識論的に彷徨う人であることによって、彼や彼女がその時代の旅人であることを逆に証明してきたのである。

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

 旅と旅行記の窮状
 旅人はつねに遠隔地の知見を彼らの言葉に置き換えて私たちのもとに届けてきた。ヘディンのロプノール湖岩波文庫)、ヘイエルダールの太平洋(偕成社文庫)、梅棹のモンゴル(岩波新書)などリアルで鮮烈な叡知は読者である私達の意識と身体に「現実」を形作ってきた。[ぜひ原典を当たってもらいたいが、時間のない方々には『世界の旅行記101』(新書館)が参考になる。]そしてこれらの旅の記録を元に多くの人々が旅立っていった。
世界の旅行記101 (ハンドブック・シリーズ)

世界の旅行記101 (ハンドブック・シリーズ)

 けれども今、私自身をも含めた現代の無数のトラヴェラーのなかに、ほんとうに「理解する」旅人がどのぐらいいるのだろうか。人間を知り、世界を知るための最良の方法の一つであった旅も、いまやすっかり形骸化し画一化されて、たんに書物やメディア的映像から得た既存の情報を自ら確認するためだけにおこなわれる旅がむなしくくりかえされている。そして旅そのものと並んで旅行記もその基盤を掘り崩されている。
 小説や詩が時代ごとにさまざまな実験や変革を試みてきた中で、旅行記は比較的変化の少ないジャンルであり続けてきた。コロンブスの航海誌(岩波文庫)からフンボルトの南米探検記(岩波書店)、ガリヴァーに託したスウィフトの架空旅行記(岩波文庫)、ゲーテのイタリアへの旅(岩波文庫)からサマセット・モームゴーギャン評(岩波文庫)、ヘミングウェイにいたるまで、旅を言語化していく感性にはつねに同じ力学が働き続けてきた。
コロンブス航海誌 (岩波文庫 青 428-1)

コロンブス航海誌 (岩波文庫 青 428-1)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)

ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)

月と六ペンス (岩波文庫)

月と六ペンス (岩波文庫)

 それはエキゾティシズムという名で呼ばれる、自らの所属する社会の外側に惹かれ自らの想像力の中に取り込もうとする衝動だった。この暴力的な感性に基づき、旅行者たちは異郷での驚きや体験を詳細に書き込んでいくという旅行記独特のスタイルを身につけていった。
 しかし19世紀の旅行記を問い直すMary Prattの"Imperial Eyes"(Routledge)にあるように、帝国主義、世界資本主義と結びついた紀行文学は激しい批判にさらされる。そして今や旅の言語は昔ながらの形ではいられない。
Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation

Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation

 旅行記は今
 「私は旅や冒険が嫌いだ」という印象的な一文から始まるクロード・レヴィ=ストロースによる南米の旅をつづった『悲しき熱帯』(中央公論新社)では、はやばやと異郷を訪れる旅人のナイーヴな自己陶酔から決別する。ストロースはエキゾティックなものへの関心に基づく旅が持つ西洋中心主義を批判しつつも、そこから自由な旅が可能となる地平などあるのだろうかと憂愁な記述を重ねる。
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 ジョン・アーリの論じるように、社会全体が『観光のまなざし』(法政大学出版局)のもとに置かれるなか、旅は日常の世界を構成するアイテムのひとつにすぎなくなり、非日常の経験が意識を揺さぶるような旅はますます困難になっている。しかしながら、越境する人々が圧倒的な勢いで増え続ける21世紀の現在、移動する彼らの生こそが新しい旅となるのではないか。
観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)

 憂い顔のストロースを橋渡しに、さらに現代では多くの「旅人」たちが移動の経験により撹拌された意識と身体の揺らぎを、従来の旅を塗り替える新しいことばで描きとめようとしている。『ワールズ・エンド』(中央公論新社)のポール・セロー、『インディアン・カントリー』(中央アート出版社)のピーター・マシーセン、『ある放浪者の半生』(岩波書店)のV.S.ナイポール、『パタゴニア/老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)のブルース・チャトウィン、『シェルタリング・スカイ』(新潮社)のポール・ボウルズ、『見ることの塩』(作品社)の四方田犬彦、『遠い挿話』(青弓社)『移動溶液』(新書館)の今福龍太といった旅人たちが自国と異郷、日常と非日常、内面と外界、定着と移動といった従来の旅の二分法的構図が相互浸透をはじめた現代の地平のなかで、それぞれ独自の旅の言語を生みだそうと記述の荒野をめざしている。
ワールズ・エンド(世界の果て) (村上春樹翻訳ライブラリー)

ワールズ・エンド(世界の果て) (村上春樹翻訳ライブラリー)

インディアン・カントリー―土地と文化についての主張〈上〉 (シリーズ先住民の叡智)

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ある放浪者の半生

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パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8)

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シェルタリング・スカイ [DVD]

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見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行

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遠い挿話

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移動溶液

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