内田百輭の棚

 ひたすら食べたものを記録していくこだわりの『御馳走帳』(中公文庫)にはまって以来、百輭先生は私の心の師匠の一人である。先生を真似て「世の中に人の来るこそうれしけれとはいふもののお前ではなし」と軒先に貼ったこともある。今思えば痛いだけの相当不肖の弟子である。

御馳走帖 (中公文庫)

御馳走帖 (中公文庫)

 さてこの内田百輭先生。本名は内田榮造といい岡山県出身の、大正・昭和期に活躍した漱石門下の小説・随筆家である。我儘で頑固、そしていたずら好きなユーモアあふれる偏屈爺さんである。

 夢幻恐怖の小説
 先生の小説はジャンルとしては恐怖ものになるかもしれないが、いわゆるホラーとは少し違う。幽霊も妖怪も出ず何も起こらないけれども気配だけは濃密に漂う。そんな不可思議な雰囲気が持ち味だ。代表作『冥途・旅順入城式』『東京日記』(岩波文庫)ほか先生の小説はすべて短編である。直接的な対象は現れず不気味さだけが展開される独特な世界をもっている。たとえば「冥途」。飯屋で自分の隣で食べている客はどうやら亡くなった父のようである。しかし影絵の様に姿も声もはっきりしない。思わず声をかけてしまうが相手には届かない……。夢にしてはやけにはっきりした夢のようでなんだかわからないけど怖い。ぼんやりした不安のなか緊張が高まり崩壊する直前で断ち切られ、読者は思わずゾッとし背後を確かめたくなる。

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

 軽妙奇抜な随筆
 一方で、先生は師譲りの俳諧趣味で軽妙な随筆も数多く残している。『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』(新潮文庫)では、他人が汗水垂らして儲けた金を借りてこそ金の有り難さに味到するという借金哲学や一円の借金を返しに高利貸しのところに行くのに二円も使って車を走らせるなど、真面目な文章で不真面目なことを延々と書き連ねている。(百鬼園は借金とかけた語呂合わせの号と言われている。)同門の芥川龍之介とも交友があり『芥川龍之介雑記帖』(河出文庫)では海軍機関学校で同僚だった話から自殺前までの思い出が綴られている。また無類の猫馬鹿でもあった。漱石の「吾輩は猫である」の続編を書いているのはご愛嬌としても、『ノラや』(中公文庫)で失踪した愛猫の行方を求め英文広告まで出して涙涙の日々を送る先生の姿は滑稽でありながらもかなしみに満ちており猫文学の名品と推す人も多い。

百鬼園随筆 (新潮文庫)

百鬼園随筆 (新潮文庫)

続百鬼園随筆 (新潮文庫)

続百鬼園随筆 (新潮文庫)

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉 ちくま文庫

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉 ちくま文庫

ノラや (中公文庫)

ノラや (中公文庫)

 元祖鉄オタ?
 さらに先生は「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」ほどの鉄道好き。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行ってこようと思う」と行って帰ってくるだけの鉄道旅行を繰り返した。現代の鉄道ブームをはるかに先取りした旅の記録紀行文『阿房列車』(新潮文庫)は三部にわたり日本の津々浦々を駆け回る。いちいち細かいところを気にする先生と、茫洋とした同行者ヒマラヤ山系こと平山三郎君との飄々としたやり取りがじつにおかしい。本作は一條裕子の筆により漫画化(小学館)されており、こちらも傑作。作品独特の間が見事に視覚化されている。

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

第二阿房列車 (新潮文庫)

第二阿房列車 (新潮文庫)

第三阿房列車 (新潮文庫)

第三阿房列車 (新潮文庫)

阿房列車 1号 (IKKI COMIX)

阿房列車 1号 (IKKI COMIX)

阿房列車 2号 (IKKI COMIX)

阿房列車 2号 (IKKI COMIX)

阿房列車 3号 (IKKI COMIX)

阿房列車 3号 (IKKI COMIX)