食をめぐる問題と思考

 お腹が空く、だから食べる。食べるという行為は、あまりに当然であると思われる。がそれゆえにこそ、じっくり考えてみた人はあまりいないかもしれない。だが一歩振り返ってみれば食の世界は不思議に満ちている。生きるために他の動植物の命を奪うことはどういうことなのか?なぜ肉食主義ではなく菜食主義が社会運動になるのか?食べることをめぐる謎は膨大な広がりを持つが、その一部を垣間見てみよう。
 食と倫理
 雑賀恵子『空腹について』(青土社)は、この空腹という即物的なテーマに関して様々な知を動員しつつ思考を展開した作品である。空腹時のちくちくした痛みから「私」の存在の構造が、食べモノ/ただのモノの境界線やおいしい食べモノ/おぞましい食べモノの区別の発見から文化の力が、食べモノがあふれ廃棄している国と全然足りず餓死者を出している国との圧倒的な非対称から他者を想像することの大切さが、著者の思弁性あふれる文章によって論じられる。
 そして存在と食を問いなおす著者の思考は、『エコ・ロゴス』(人文書院)にてさらに飛翔する。京都での学生時代、動物実験で毎日のようにマウスやラットを殺していた著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と身体を持つものして生きることの倫理がくりかえし自問され、読者に投げかけられる。

空腹について

空腹について

エコ・ロゴス―存在と食について

エコ・ロゴス―存在と食について

 食と動員
 食の倫理は個人のレベルを越え、国家とも結びつく。二〇〇五年に食育基本法が制定され、食べることや食べ物が「いのち」との関係で語られることが増えている。とりわけ食育推進の関係者は食べ物についても、いのちについてもわかっていますという雰囲気で発言してきた。ただしそこには、生きるとは、いのちとは、食べるとは、食べ物とは、安全とは、健康とは……といった根源的な問いかけがあるわけではなく、誰も反論しない常識が教訓らしく語られるだけのことがほとんどだ。
 そして、日本では健康や教育と結びつけられている食育は、国家動員の論理から導き出されたものでもある。池上甲一・岩崎正弥らの『食の共同体』(ナカニシヤ出版)は、そんな政府主導の食育運動の危うさを歴史的に分析して食育という美名に隠されたナショナリズムを読み解いている。食の問題がいかに国家・イデオロギーと密接に結びついてきたかを近代日本やナチス、有機農業運動を例に引きながら紹介する。

食の共同体―動員から連帯へ

食の共同体―動員から連帯へ

 食と安全・安心
 また現代の食をめぐる問題として食品汚染や偽装の問題が注目を集めるようになって久しい。一連の騒動から明らかになったのは、食品は最初から安全でなければならない、あるいは最初から安全なものが食品であると思い込んでいる人が多いということだ。そして、安全は数値で科学的に判断がつくと思っている人も、意外に多い。だがゼロリスクの食物を希求するのであれば、究極的には「何も食べない」しかない。安心と安全は別物であることを認識しなければならない。
 感染症臨床医・岩田健太郎による『「リスク」の食べ方 食の安全・安心を考える』(ちくま新書)は、食の安全性をどのように考えるべきかを教えてくれる。食の安全は「一つのリスクを減少させれば、他のリスクが高まる」というトレード・オフの関係にある。最近、提供禁止となったレバ刺しを題材にその背景を丁寧にみていく。食の危険の面だけでなく、いわゆるトクホのような健康食品についても、その功罪をバランスよく論評する。食べ物とは本来、薬にも毒にもなる二面性を持っていて、それを把握した上で付き合っていく必要があることがよく理解できる。
 このように今回の特集では、哲学的、社会的な側面から食べることを追ってきた。まだまだ論議すべき問題は残されているが、現代の食をめぐる諸相を提示することはできたかと思う。下宿で自炊しながら、または学食でご飯をかきこみながら、自分たちの食事を包む世界について思考を巡らしてみてほしい。

「リスク」の食べ方―食の安全・安心を考える (ちくま新書)

「リスク」の食べ方―食の安全・安心を考える (ちくま新書)