枯淡への道

 四月になった。何か楽しい嘘をつこうと思っていたのだけど一つも思いつかなかった。ま、いいか。こういう年もあるだろう。




 ところではなしはまったく変わるが、若者はいくつから若者でなくなるのだろう?
 早く「最近の若いものはまったく!」と言える身分になりたいのだが、その権利は何歳から与えられるのだろう。腹が出てきた頃からか、それとも禿げてきたら? 三十後半からというのが最低条件だろうか?


 ぼくはできることなら壮年、中年をすっ飛ばしてとっとと窶し[やつし]を極めた爺さんになって隠居の身になりたいと思っている。大学も出たし社会人もやったし、そろそろいいのではないか、と自分としては思っているのだが、どうだろう。まだ、駄目かな。 


 もともと十代の頃から親には若年寄と言われていた。普段は縁側で猫を抱いて日向ぼっこしつつ読書して、晴れた日には杖をついてのんびり散歩しながら古本屋と植木屋を巡る、みたいな生活が理想だと自分でもいっかな途切れることなく夢想しつづけてきたので、老境願望はぼくの奥底に根付いていると言ってもいい。先週も「やはり食事のあとは煎茶にかぎりますなぁ、どうですおかあさん、ぼくにも一杯いただけませんかねぇ」などという台詞が自然と口からでてきてジジクサイと笑われたばかりなので、今もやはりそういうところは変わっていないのだろう。(そういえば、と、これを書いているうちに思い出したのが、中三のときに仙境好きの同志でもあった同い年の従兄弟と謀って、中学を卒業したら中国蘆山に渡り道教を修め仙人になる計画を立てていたこともあった。五穀を絶って修行を積み体内を気で満たせば霞を吸うだけで満ち足り空も飛べるようになるのだ、などと大真面目で仙道知識を競い合っていたのが懐かしい)


 薄くまばらになるばかりで一向に長さと量を伴ってくれないのがいまぼくの頭を唸らせている悩みの一つではあるが、髭も蓄えられつつある。白髪は見えないが見た目も多分老けてはいる方だろう。歯はまだまだいけるが鼻も眼も耳もよくは機能していないし、腰と足にもそろそろガタがきつつある。書くこと話すこと、どれもこれも昔のことばかりだ。これだけ充分すぎるほどの素養は備わっているはずなのだが、どうも認められない。御老公とまでは言わないが、どうしてだれも御隠居扱いしてくれないのだろう。


 そうか、もう少し呆けが来ないといけないのかな。
 よし、これからはがんばってぼんやりするぞ。


 というわけだから、此処読んだ諸君はぼくがトンチンカンなことを言い出しても、それを非難してはならない。偉大なるタオへの長き旅の途上であると了解して、老人への敬意と愛情とをもって接してくれなければいけない。でないと此方も「この若造奴等が」という然るべき態度で対するので覚悟の程宜しく候。