名づけ得られた瞬間おそろしさであることをやめるそれとは何か

 人には、という主語からはじまるテキストはたいていの場合、そのあとに続くもろもろの述部に対する実感を「(ひとごとではなく)まさにそのもの自身」としてもてる主体、つまりはおのれのことを主部にしているわけだが(要するにぼくにはということだ)、ときどき夜に猛烈な不安と焦燥感に襲われる瞬間というものがある。ぼくの場合、それは月に一度あるかないかくらいの頻度でおこる。寝るときにおきる場合もあるがその前からその予兆が分かる場合もある。たいていは一人でいることが多い。


 その襲ってくるものなかには、

 ・このまま寝たら明日起きてこないかもしれない
 ・今この瞬間周りにいるはずの存在が消え去って存在するものが己だけになっていない保証はまったくない

という大きく二分別される想念がある。前者は自我の喪失、後者は他者の喪失と言い換えられるかもしれない。


 ときおり彼奴らがその眷属を、負の軍勢を引きいて攻め込んでくる。その進軍喇叭の高らかなる響きを耳にすると、どうにもこうにも居たたまれなくなる。ガシャガシャと頭を掻き毟って外に向かって叫びだしたくなる。


 この感情はなんと名づけるのだろうか。
 恐怖、そう一番近い感情をあらわすことばは恐怖、もしくは言い知れぬ不安だといってもいいと思う。かっこよく表現するならば「存在の不安」とでも呼ぶのだろう。かっこつける気分ではないので言わないが。
 小さい頃から恐かった。当時は毎晩のように恐かった。今では量こそさすがに減ったが、その質感はなんら変わるところがない。


 嫌とか好きとかを別にして、これはすごいことだ。


 ではどうするか。酒など呑むともっと酷いことになる。薬もいまいちよくない。
 子どものころ天井を見張りながら吸血鬼と鬼と死神の到来におびえていたときと同じ対処法を取る。すっぽり布団の中にもぐりこみ暖かくなるのを感じはかりながら、これはいずれ去っていくのだ、前からよく知っているただの現象にすぎないのだ、と言い聞かせながらじっと耐える。たいていはこれでいい。統制の取れた夜盗よろしく盗るものがないのが分かればいずれどこぞに去っていく。


 最近はあらたな療法を発見*1した。紙かどこかに書いて/描いてしまえばいいのだ。メモ帳、またはノートに写されたそれ(≒魔?)は対処を許す既知の客観物として封印される。*2そして一時的に彼岸*3へと渡される。感情は自己のもとから離れ、一定の距離を保った考察対象へと昇華される。しかしやはり本ものの三途ではないのでいつかは戻ってくる。これは精神分析全般にも同じことが言えそうな気がするが、もしかしたら不遜な手法なのかもしれない。


 こんなぐだぐだ描いていること*4だって、脳及び身体の各部所におけるホルモンやその他の化学的分泌物の増減、そしてバイオリズムとの関係性から説明可能である、すなわち「月のもの」として分析されることは可能だろう、とも思っている。


 人体は機械ではない。だが、機械でもある。


 と思えなくもない。

*1:精神の問題においては、新発明とは実のところ再発見にすぎないのではないか。つまり元々眼前にあった対象を改めて(初めて?)認識したというだけなのではないか、ということだ。さらに言うのならば、我々の世界、宇宙と呼んでもいいが、は誕生した時点で既に脳内に収められていたのではないか、というやや確信めいた疑問もある。

*2:本当は封印など全然されていない。そう思えるだけのこと。錯覚でしかない。しかしそれは有効な錯覚だ。人はだまされたいと思う方向にだまされる。それは往々にしてだます側にも同じこと。だがやはり錯覚ゆえにこの処方は対症療法に過ぎない。そしていまだ根治療法は発見されていない。ただし人によってはその限りではない。プトレマイオシンはあるのだ。成長、結婚、進学、ひっくるめて環境の変化、その他色々な名で呼ばれる適用処方は揃っている。もちろん副作用が絶対無いわけではない。

*3:常世とよんでもいいかもしれない。

*4:[こいつは本気でよけいな注釈だが]よく読める読者は書き手はぐだぐだだなんてそんな風にはこれっぽっちも思ってなんぞいないことを読み取らなければならない。