ミクロコスモスとしての虫

私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ……

 一六世紀のイタリアでこうも独自な思想を説き異端裁判を経て焚刑に処せられた粉挽屋の姿が古文書の闇から発掘されていく…。
 という概説をされる『チーズとうじ虫』はいたって真面目な、ミクロヒストリーの開始を告げた画期的歴史書なのだが、読者は内容よりもまずチーズからはい出るうじ虫のイメージにショックを受けるかもしれない。潔癖症化した現代では、(一部は捕獲・陳列・愛玩の対象となるとしても)虫は排除されるべきおぞましい存在とされることも多い。

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

 しかし、虫は自然と人間をつなぐものとして昔から人々の生活に息づいてきた。『民族昆虫学』(東京大学出版会)では、主に昆虫食を題材に虫が象徴する自然と人間の関わりあいの歴史と行為を論じる。アフリカ、東南アジア、日本の各地をフィールドに収集したデータを元にナチュラルヒストリーの中に昆虫を位置付ける。代用食として虫を食べるのではないこと、虫は地域に根ざした文化食であることなど、虫食を通じて各地域の人々、ひいては環境問題と、著者の射程は虫とその背後の世界までを捕らえて離さない。 また書物にあらわれる虫と人間の関係といえば堤中納言物語の「虫愛づる姫君」が有名だが、この物語には『風の谷のナウシカ』(徳間書店)の他にも変奏曲があって、現代日本における姫君は飼育者にとどまらず新しい種の母親にまでなってしまう。『エンブリヲ』(エンターブレイン)は平穏な学生生活が大群の虫たちに襲われるインセクト・ホラーなのだが、タイトルとおり未知の虫の胎児を宿された主人公は懊悩しながらもいつしか無事に胚を孵すことを願うようになっていく。『ガダラの豚』(集英社)のラストでは虫愛づる大君が覚醒するが姫君というバイアスの見事な逆転ともなっている。そして『ナウシカ』。跳梁跋扈する巨大な虫たちははじめ人間たちの世界を侵略するものとして表される。だが、争いを止めない人間と対比して虫たちの王、王蟲こそ最も高貴な存在であることが示される。さらに物語の進展により、虫たちの棲まう腐海が人間の破壊した世界の浄化システムであることが明らかになる。外見とは裏腹の内実を表象する象徴として虫は作用しているのだ。これらの作品では虫は人間の世界を逆照射する鏡になっているといえる。
エンブリヲ 1巻 (BEAM COMIX)

エンブリヲ 1巻 (BEAM COMIX)

ガダラの豚〈1〉 (集英社文庫)

ガダラの豚〈1〉 (集英社文庫)

 さらに虫は物語の敵役としてだけでなく、メッセージを託される重要な役割を演じもする。ポオの『黄金虫』(岩波書店)では金色のカブトムシは暗号でもって主人公たちを海賊の財宝のありかへと導いてくれたが、現代のカブトムシはもっと積極的なようだ。カブト虫のゲリラ、ドゥリートはメキシコ南部のチアパス州で反ネオリベラリズム運動を展開しているサパティスタ民族解放軍(EZLN)のマルコス副指令が生み出したキャラクターだが、こちらはうってかわってやたらと饒舌。マルコスとの対談でマヤの子孫である先住民の神話や伝承、世界観から彼らの訴えるネオリベ反対の政治方針や革命理論までいくらでも語ってくれる。ドゥリートの語る文書は『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』(現代企画室)に収録されている。刻一刻と変わる状況に応じた政治パンフレットとして書かれたものも多くまとまりに欠けるが、話の突拍子のなさも含めてラテンアメリカ文学の潮流の延長に位置するものともみなせよう。
黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

ラカンドン密林のドン・ドゥリート―カブト虫が語るサパティスタの寓話

ラカンドン密林のドン・ドゥリート―カブト虫が語るサパティスタの寓話

 以上、ミクロな虫たちにさまざまな意味が付与されマクロな世界が展開される様を挙げてみた。こうみると冒頭のうじ虫=天使のアナロジーから展開される異端思想が一種のコスモロジーであるのは示唆的である。微小で無数にうごめく虫たちのなかにこそ宇宙が秘められているのだといっても言い過ぎではないだろう。何しろ米国の昆虫学者のエッセイタイトルにあるように、そもそも地球は『虫の惑星』(早川書房)なのだから。