「食べること」からみるナチスと現代世界

 食べることはよく考えることである。食の思想史家、藤原辰史の著作を読むたびにそんな思いに駆られる。農業と人々の生活の歴史を、建築から自動車や冷蔵庫、そして石炭や電気といった様々なエネルギーに至るあらゆる技術の発展と関連付けて研究してきた研究者である彼は、食についてとことん考え抜く。

 ナチスから読む現代世界の食の窮状
 食の安全や健康問題、孤食といった荒廃した現代の食を再考するために彼が取り上げるのは、ナチスドイツである。なぜナチスなのか。それは人間ではなくシステムを優先する究極の合理化を進めたナチスの世界と現代は地続きだからである。このような観点はファミレスの冷凍食品に代表される安価な効率重視の食事だけでなく、一見対照的なエコロジー思想にも見出せる。
 たとえば、ヒトラー政権は「動物保護法」「自然保護法」を制定した。人間も動物も植物も包括する「生命」を国家の軸に据えようとした試みを、ナチスは世界に先駆け行ったのだった。これは従来の人間中心主義を超え、自然との共生を謳った生物圏平等主義を唱えたものであり、現代のディープエコロジーと共振するものだった。しかし彼らの生態系や有機体のなかに劣等人種は含まれず、人命が家畜よりも軽く扱われたホロ―コーストに行き着く。『ナチスドイツの有機農業』(柏書房)は、その鍵をバイオダイナミック農法とナチズムの農本主義、農業政策から解読していく。エコ思想が孕む危険性は現代にも(でこそ)通用するものだろう。

食の共同体―動員から連帯へ

食の共同体―動員から連帯へ

 台所からみた環境と思想の歴史
 そして最新作『ナチスのキッチン』(水声社)では、テクノロジーを肯定しつつも伝統を重んじた二律背反的なナチス思想に対して「台所」という視点から迫っていく。
 ドイツは第一次大戦期、イギリスの経済制裁から大量の餓死者を出した。前著『カブラの冬』(人文書院)にあるように、その食い物の恨みがナチスの台頭を準備したが、ナチは血と土の論理で家父長的な制度を強化しつつも家事労働を軽減する政策も進めた。台所は「男女の非対称的関係の表出の場」であることを温存しつつ、合理化を追求するテイラー主義(労働者管理法)やモダニズム建築の流れのなかで科学化、マニュアル化によってひたすら機能的であろうとする。そのなかで、決して機能的ではない人間のこころとからだが、どのように制御され近代化・科学化が遂行されてゆくのかを追う。
 この第一次大戦後からナチスの台頭までの、飢餓状態からの復興と近代化は、日本が経験した第二次大戦後の飢餓状態からの復興に似ている。つまり、現代に至る戦後日本の歩みとナチス台頭の過程はパラレルなのだ。また戦間期のフランクフルトで開発されたシステムキッチンがアメリカでの大量生産化を経て戦後日本を席巻するに至った歴史を考えれば、現代との接続もみえてくる。
 竈からレンジに至る調理器具、家政に関わる行政資料、家事マニュアル、レシピ、台所の改造に関わった女性運動家の活動など膨大な資料と視点を駆使した本書の視線は、食育を論じる『食の共同体』(ナカニシヤ書店)以来、一貫して食の機能主義を批判するものだ。機械のように台所仕事をこなす主婦の姿は究極の低コスト労働力としての強制収容所の囚人と紙一重の位置にあり、栄養機能食品で瞬間チャージしてひたすら働くサラリーマンも同じ地平にいる。
 彼の一連の著作は栄養摂取に貶められた食を文化行為として救い上げようとする試みであると言えるだろう。食べることに関心ある全ての人に勧めたい。

ナチスのキッチン

ナチスのキッチン

稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」 (歴史文化ライブラリー)

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