ナンセンスの論理と笑い

◇ナンセンスとは
 ナンセンスnonsenseの原義は、「無意味」でばかげたこと、たわごとという意味だが、文学や芸能でいうナンセンスは「無意味」ではない。現実世界の常識や規範にとらわれない現象を想像の中で築き、日常、経験することのない感覚の世界や現象を創造するのがナンセンスである。法則、時間、空間、制度、論理など現実世界を取り囲む枠組みを想像の中で破壊するセンスのことである。この枠組みは人間の理性が生み出したもので、社会生活には必要なものだが、同時に人間の精神を窮屈な枠の中に閉じ込め抑圧する。その枠組みを想像の中で破壊し、精神を束縛から解放するのがナンセンスである。
 誤解されることも多いが、ナンセンスはでたらめな非常識ではない。ナンセンスは常識と共にあって成り立つものである。文芸評論家エリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』(河出書房新社)は、日常とかけ離れているナンセンスの世界が実は、厳密な固有の論理により周到にコントロールされた世界であるという。人は常識に閉じこめられていることを感じるからナンセンスを求め、ナンセンスに反応することができる。
 本書では、ナンセンスが理性により導かれた世界であることを解き、言葉遊びのルールに代表される近代の分析的知性が世界を切り詰めていく危険をあばき、近代批判を展開する。単なる文学論にとどまらず、近代をナンセンスの構造として見る視野の広大さゆえに、高橋康也『ノンセンス大全』(晶文社)とならぶナンセンス論の決定版と呼ばれるにふさわしい大著となっている。

ノンセンスの領域 (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

ノンセンスの領域 (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

ノンセンス大全

ノンセンス大全

◇笑いとしてのナンセンス
 ナンセンスの論理を分析するシューエルはコミカルな側面については取り扱っていないが、やはりナンセンスに笑いはつきものだ。
 『不思議の国のアリス』のようなナンセンス作品が生まれた背景には、19世紀ビクトリア朝イギリスにおける市民モラルの圧倒的な支配があった。すみずみまでいきわたっていた社会的な緊張から隔りをとり、人工的な言葉の操作による意味と無意味とのたわむれの中で、人びとはナンセンスにつかの間の自由と解放を求めていたのだ。20世紀になってダダイストシュルレアリストたちもナンセンスの笑いを愛用した。(ただしあくまで厳密なルールに則る点で、意識から脱しようとするシュールレアリスムとナンセンスは異なる)彼らの場合、「黒いユーモア」と呼ばれる言葉や物体のコミカルな変形を通して、市民モラルや時代の一般的な見方・考え方に挑発をしかけ、人々の意識に変革を及ぼそうとした(黒いユーモアの実例については河盛好蔵エスプリとユーモア』(岩波新書)に詳しい)。

エスプリとユーモア (岩波新書)

エスプリとユーモア (岩波新書)

◇日本のナンセンス
 ナンセンスが心理的安全弁の役割を果たすのはどこも変わらず、日本の笑いの世界でも多くのナンセンスがみられる。織田正吉『笑いのこころユーモアのセンス』(岩波文庫)では、笑いの技法としてのナンセンスが論じられている。「万葉集」の、「由る所無き歌(無意味な歌)」を求めた舎人親王の注文に応じたという安倍朝臣子祖父(あべのあそみこおじ)の歌〈吾妹子(わぎもこ)が額(ぬか)に生(お)ひたる雙六(すごろく)の牡牛(ことひのうし)の鞍の上の瘡(かさ)〉などは、日本最古のナンセンス文学の例であろう。江戸時代の狂歌や戯作にも多くの好例が見いだせる。
 落語にはナンセンスがよく出てくる。『あたま山』(上方では『さくらんぼ』)は、サクランボの種を食べた男の頭に桜の木が生え大勢の人が花見に来るのだが男は頭の上がうるさくて苛立ちのあまり桜の木を引き抜いてしまい、頭に大穴が開いた。ところがこの穴に雨水がたまって大きな池になり、近所の人たちが船で魚釣りを始めだす始末、釣り針をまぶたや鼻の穴に引っ掛けられた男は怒り心頭に発し自分で自分の頭の穴に身を投げて死んでしまう。一人の頭に大勢の人が集まるのは現実の秩序としてはありえないが、ここでは全体と部分の関係、大小の関係の逆転という日常経験できない感覚を楽しむことができる。
 本書は長年笑いを研究してきた演芸作家の笑い論だが、独特の解釈も光る。「君が代」の歌詞になっている「さざれ石の巌となりて……」のくだりの部分。著者によるとここはナンセンス。常識の世界では、岩石が風化して小石や砂になるが、「君が代」は逆に小石が動植物のように岩石に成長するという想像を絶する時間の長さを感じさせるナンセンスになっている。末尾に「苔のむすまで」と現実の時間の長さを添えることでおかしみを増している。
 ナンセンスには風刺で他人を傷つけることもなければ教訓性もない。役に立つことを望もうが望むまいが、常識という枠組みを破壊する観念の飛躍は、固定観念にとらわれた頭に新鮮な酸素を補給し、ちぢこまった精神を子供の自由さに解放する。時事性の笑いが時間の篩にかけられて消えて行くなかで、アリスの猫とあたま山の池は永遠の生命を保ちつづけるだろう。

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