何が罪で何が罰か

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)


 ドストエフスキーとその作品について考えていたら頭が痛くなった。思考するのに必要なものは何を差し置いても体力だな。しかし、それにしても、さまざまな誤読・深(不可?)読みも含めて、本当に多様な読みを可能にする作品だと思う。


 以下、ぼくなりの『罪と罰』の紹介文。

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 神と人の問題について思考するのは難しい。しかし問題自身を生きることは更に困難だ。
 『罪と罰』は、19世紀ロシアを舞台に超人思想から金貸し老婆を極悪非道の虱として殺す青年ラスコーリニコフが殺人を自白するまでの延々苦悩を描くドストエフスキー代表作。
 青年に自白を決意させるのは、極貧家族のため体を売るほど徹底して不幸であるが故に徹底して神を信じる娼婦ソーニャの自己犠牲。この種の人間がソルジェニーツィンから柳美里の『ゴールドラッシュ』など多くの作品に表れるのはその系譜が現役な証拠だろう。その狂信にも近い盲目的な信仰は人間の一つの理想形だ。が、それがわかる者には「信仰を求めるものは信仰自身にはなれない」という慄然が訪れる。彼女に「あなたの汚した大地に接吻しなさい」と促された彼は広場に跪く。だがその時、彼と読者は空恐ろしい事実に慄く。おのれが神ならぬ彼女になれないことがわかるからこそ、彼は震えざるを得なかったのだ。彼女は自身の価値など皆目知らない。その価値がわかる者はわかるが故にこそ、おのれに、おのれの絶望に慄かなければならない。感動の通奏底音は常に戦慄だ。広場で一度は口から出かかった懺悔の言葉を嘲笑でかき消す冷ややかなラスコーリニコフの視線が自身をも貫くのを知ったら人はもう安穏の日常には戻れない。あとは乾いた震えばかり。
 「警察署の階段を上がる彼はそこで思いがけなく、彼の秘密を知る唯一の敵手の自殺を耳にする。まだ戦ってみる余地はある。彼は引き返す。と出口のところで、彼の後を見え隠れにつけて来たソーニャの蒼白な絶望した顔に、バッタリと出会う。彼はニヤリと笑って再び階段を上がる――」
 自尊の罪の報いが不可能な愛を求め続ける渇望とは、何と重罰なことか! 全てが終わり、平穏な牢獄で「自由を獲得した」はずの彼がなお救われていないことにこそ最終的な人間回復より遥に引き付けられるものがある。