in the floating mind

 徒然なる事、其ノ二。


 サッカーでないものがサッカーとなることについて。


 商業神/土地神への祀りとしての阪神フィーバーなら分かるが、蹴球杯の盛り上がりが全国規模になるのはまったく分かりにくい(分からないとか下らないとは言っていないぞ(否定することでそれを強調する/顕現させるという人間の(無)意識の習性を弁えた上であえて言うんだが))。


 国家と個人の断絶といった(もう終わった? 勝手に終わらすな?)批判するものも批判されるものも、その「熱」ばかりが遡上にあがるディスクール*1には寄らない方法で分析する方法はないものか。(政治的でないことを可能とする政治哲学なんてあるのか? それは歴史学だ。そうではなくて現代を。少なくとも生きた人間を)


 そうか。と、想人、諸手を打って判じたり。「絶対的な」自己非同一であることが、対象を語るための視座にいる(望むと望まざるに関わらず)必要条件であるがゆえにこそ、ファンは饒舌になりたがる(ならざるを得ない?)と考えれば、少しはスッと来るかな。自分たちがサッカーそのものではないからサッカーのことばかり話したがるのかな。ベースボールだって大半の新聞記事だって同じ事だ。何度も言うが、別にこの文章に批判的な意味を求めてはならない。考察に必要なのは未知なるものに対する好奇心と対象から学ぼうとする興味関心とそれらを持続する忍耐だ。




 極めて自身に固有の「感覚的」なことだとは思う(案外ほかの人も「同様に」感じているのかもしれないけれど)が、ここで考えているのは、人hommeでないもの「になる」/「である」(もしくは)「であった」ということはどのようなものか、という問題にも通じそうだ。






 かなりの年齢まで(おそらく今でも)映画館か図書館になりたかった(監督でも司書でもなく。断じて!)人間は、幾つになっても人的な属性とそれ以外の物性、諸概念との区別がつかず(もしくは、というか、やはり、意図的につけず?)こういうことを考える。

*1:もちろんそういった思考の現実的な有効性は認めた上で。戦略的なナショナリストは「国家的」祝祭が回復可能な程度での(短期的なレベルでみれば回復不可なレベルまでも許容して)悲劇(できれば熱狂的な)に終わることを欲する、なぜなら人は悲しみや憎しみ共通の敵といったものによってこそより強固に結びつく(もちろんそこにはそうせざるを得ない必然性があるからだが)ものだから。