悪いことは言わないから観に行くべし

 映画「時をかける少女」は大変よく出来ている。


 いま現在高校生じゃない人はおそらくかなりの確率で楽しめるはず。ものすごい皮肉屋である友人も泣いてたから、そのど真ん中の直球は多くの人の心のどこかに響くと思う。




 いまぼくがこの映画を観て抱いた感想をあらためて反復的に考えていたところ、登場人物たちよりも年上の世代がジブリ作品の「耳をすませば」を観たときに抱いていた感情に似かようものがあるのじゃないかという推想が起きていた*1。つまり観客たちは、失った(と思っている)innocenceを「もう戻れない過去のもの」として映画内で代償的に反芻しようとしているのではないか。彼ら観客たちの一般的な思いとは、端的に言って「俺も/わたしもこういう高校時代を送りたかった!!!」といった(わかりやすい)叫びで表現されるものだ。こういった追憶の促進力は映画というメディアのもっとも得意とするところだろう。




 ノスタルジーの本質はひょっとしたら、「この映画のようではなかった当時」が「この作中人物たちのようにしたかった/なりたかった」という感情を喚起させる、映画や小説といったフィクションを必要とする*2というよりもそのフィクションにどっぷり寄りかかるところにある、すなわちその作品といった対象が目の前に立ち現れない限り、ノスタルジックな感慨は発生しえないのではないか?


 といったことごとを考え中。せっかくだからタルコフスキーの本でも読んでノスタルジーについてはちょっと検証して考えてみよう。どこかにいい研究書や映像作品ないかな?


(2006/09/17追加)
 一日経って、自分の考跡を読み返してみると、どうも当たり前のことを当たり前でないかのように考えているような気もする。

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*1:ぼくは「耳をすませば」の公開当時、作品内のキャラクターたちと同じ中学三年生だったからそれを同世代のものとして観ていたから、当時はこの年上の観客という定義には当てはまっていなかった。じっさい懐古的な気分のものとは受け止めていなかったように思う。

*2:「必要とする」と言ってしまうと、個々の作品を媒体として懐古の感情が自らの中に湧きおこったかのようにみえてしまうけれど、ぼくが言いたいことはそういう主体的なことではなくて、その感情自体が個々の作品に内包されたものではないのだろうか、という、実は主体性という概念に対立するきわめて他律的な考えのことだ。