覚書と注釈

 怒りも悲しみもいずれ時が洗い流してくれることだろう。たとえ根本的に癒されることのできない傷がふいに現出することがあるとしても、たいていの日常生活はレテの水が運んでくれるだろう。




 ここで、議論となるのはこのように語るその瞬間はその語られるような時間ではないことだ。だいたいの慰めの言葉が将来を喚起させようとするのは、そうすることで悲惨な現在が輝かしい将来によって報われるというイデオロギーが強力に作用しているからではないか。助言者もその相手も、まだ選ばれていない経験をよりよい価値のものとして信じており、というよりもそう思いたい、という心理が働いているように思える。思いたい、という状況から分かるように実際には、変わるのは現状ではなくて人の意識なのであろう。そのように見、将来に担保させるだけで対象となる問題を見ないとしたら、たしかに未来を語るのは狂人だ。しかしこの議論に愚人と賢人が入り込む余地はあるのか。狂であることが唯一の解決だとしたらどうなのか?






 こんなことを考えるのはいま現在腹が立つようなことがあったからであり、それを昇華しようとしてやや失敗したようなかんじになっているんだが、それにしてもむかつく奴がいるもんだな世の中は。どんなに他人の状況を慮って思考しても、そいつの一言によっておこる感情で全てが吹っ飛ぶということはまったくありうることだ。