昨日の続きの今日という日

  • 消費と欲望を巡る冒険

 消費とそれを支えるシステムは欠乏によって支えられる。いまさらながら日本の社会の連続拡大消費は欲望する機械の美しくも画一的な運動などと言ったら笑われるだろうか?
 欲望に対してunstoppableな状況はあまり幸福には思えないが、どうかね?
プレゼントが本当に「欲しい」のかそれとも「欲しいと思わされている」のかということの違いは自我の抽出と同じく判別しがたい問題だけども、少なくとも自らの欲望に対しては自覚的であるほうが好ましくみえる。
 消費から疎外、そしてその先へ進む精神の冒険は感興をそそるが終わりが見えない。

 行為者はその行為者である由縁、すなわち運動(それは各種活動であってもよいし言論でもいいだろう)を止めた瞬間から、すべてを見通すものの一切手出しは出来ない巨大な一個の眼へと変わっていく。

 徹底したアンチ・キリストであろうとしたあるフランス人は醜悪に腐敗していく父親の姿を凝視し続ける目玉を構想した。

「僕はこのごろ神という存在は一個の眼球に過ぎないのではないか、という気がしているのだよ。すなわち、ノアとその一族を彼らの箱(すべての有なるものがその舟の名を冠した箱の中に含まれていたとしたら、勿論パンドラの名でよく語られるあの馴染み深い彼の者共も入っていたのだろう)から解放せしめたあとは人間に対する審判者であることも調停者であることも辞め、一つの「大いなる目」に転じたのではなかろうかと量っているんだ。人間が「彼は死んだ」などと声高に叫びだす遥か以前から、彼は実質囚人も同然の状態だったのだよ。
 その目は何でも見通す、どうも最近瞑られていることも多いようだが。しかしそれは単なる観察者でしかない。実界においては視線の存在は感じられることはあっても何ら創造は行われない」