学生としての疑問

 学会なり大学なりを背負って学問体系というそれなりのバックボーンを支えないといけない(とされる)教官ならまだしも、いまだ未分化で「何ものでもない」大学院生までもが自分の「所属」する(と考える)学部や学科の定冠詞として付けられた学問類型に対して忠誠や拘泥をし価値判断を行うのは、僕にはとても不思議なことだ。(自分の学部なんてとりあえずの暫定的な配置に過ぎないのでは?)


例)人類学では……はできない、社会学はもう終わってる、それは〜〜学ではない


 訒小平の白猫黒猫論ではないが、それなりにリアリティーのある「真実」という目的地にたどり着くことができるなら、社会学だろうと人類学だろうと乗り物はなんだっていいはずだ。「〜〜学」は単なる方法論にしか過ぎない側面も大いにあるのだから、「こう考えなければならない」とか「〜〜学ではこうしないといけない」と絶対視しないといけないものではないだろう。自分が「〜〜学」自体であるわけでもないのに、自己と同一視してこだわるのは思い上がりもはなはだしい上に馬鹿げていると思う。
 けれどもこんな(ある種の人びとには許しがたいような)ことを言えるのは、僕が軸をどこにも決めない風来坊だからなのかもしれず、対象の学問に対する愛情が足りないだけだと責められたらそれまでのことだけど。まあしかし個人的には何々学者と名乗るような行為には何の意味も感じないしあまり興趣も湧かないのもたしか。




 あと最近とみに思うことには、学問をすることと学者になることは根本的に違うことだな。「学問/勉強/研究がしたい」という気持ちと「大学に職を求めたい」という願いは全くもってカテゴリーとレイヤーの異なる問題で、なおかつその二つは相反するものであるような気がする。(大学で勉強するのは好きだし尊敬し理想とする先生もたくさんいるが、その反対の人間の数も圧倒的に多く彼らと付き合いその底なし沼に全身を埋めるには、今のままでは代償が高すぎる。)
 しかもまた(極めて悪いことに)研究者になりたい、という希望はえてして「知らない社会に出ずに自分の世界に引きこもっていたい」という願望の裏返しであることも多い。そのような後ろ向きな欲望の犠牲になる/なるであろう学生のほうこそたまったものではない。研究と教育が大学の役割だとしても、研究のみの(=「研究」しかしたくないと思っている)人間の居場所はもはやないと言えるだろう。これから大学の先生に求めるべき選定基準は、教育にかける姿勢、すなわち教えることと学生が好きであるかどうか、学生と相互作用的に協働して授業を作り出す情熱と工夫という点にこそ重きを置くべきではないかな。




 また別にこの頃考えることは、コメントのよいやり方とはどのようなものかということ。発表に対してどのような意見、言い方(この二つは異なる次元のものだ)が相手にとって(その場の第三者の人たちにも)有意義なものとなりうるのか。そしてまたおのれの発表の時、どのように聞けばよりよいフィードバックが可能になるのか。僕自身、発表はダイアローグに基づく交感、交興、交響的なものが好ましいと思っており、そういった理想をめざす以上は、よくよく吟味しないといけない問題だ。






P.S.
「」や()の使い方に注意。