memo

 最近考えていることは、十九世紀の最前線を再検討すること。具体的にはフロイト以前の心の究明の試みについて。精神分析が科学と化すに至る直前期。心の理が未分化で諸学問と幸福なランデブーを持ちえた状況を現在の視座からもう一度見直す思考実験。

 無意識なるものがいまだ生まれていない世界でそれにあたるものを別の言語で問うてみるのはなかなか楽しい。


 こんなことをやり始めたのにもそれなりに理由があって、前から「心」の問題に対する相談(ぼくの周りでは、そいつはたいてい人生相談の名でもって呼ばれることが多い)を受けることが何回かあり、別にこちらは何にも出来やしない(「人生」ではなく「心」といったのはここに理由がある。他者との関わりである人生という「状況」にならば手をつけることは多少なりとも可能だが、「問題」(括弧をつけているのには意味がある。本当はその語には、呼ばれるのにふさわしい適する然るべき別の名があるはずなのだが、その語句が何らかの理由(存在しないなど)であらわされない場合、括弧が付けられる。要するに、本来は「必ずしも」問題ではないこともありうる、ということだ)なのはそれらを見据える当人の価値観や観点にあるからだ)のだが、話を聞いているうちに自分なりに処方を省みてみようかという気になってきたからだ。


 で、そこでのいくつかの仮説とぼく自身の考えをリミックスしたところの、とりあえずの結節点は↓のメモ。




 精神における諸問題はときに非形容にもなる言語の広汎性にのみ頼るのではなく、言語外の明晰性をもって解かれなければならない。あたかも幾何学の諸定理のように。その際の第一の必要条件はメディアを介したパロールではなくなる。二次元的限界を超えたチャートと図式とが必携となる。
 文学だって科学の用語で解明する言説が大多数に通じるようになる日もいずれは来るだろう。


 おのれに最も遠いものたちをこそ想わなければならない。
 人の知能は想像し得ないことを思考し続けるためにこそ存在する。

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 テーゼとしての信条 → 自らに課す義務および訓練


注記:


・この"→"は「〜から」と「…へ」とを結びつける、意志による変換、すなわち思想から行為への移動を示すもの(アンガージュマンとでもよぶことはできるかもしれない。だが、これは単なる抽象から具象への落とし込みではない。そもそも実践において概念の方が先で優位であるなどという意見はいただけない。具象が抽象の表現に過ぎないという人はあまりにも「現実的」すぎる)だが、その左辺と右辺の間に横たわる裂け目は短くも深い。地面は見えない。底なしかもしれない。しかしそれは単に明度の不足によるものであって意外と浅いものである可能性もある。


・わからないものを恐れることはない。未知は喜びをもって受け入れねばならない。


・ここでいう思考とは頭脳における体力、思念のうねりに耐えるスタミナに他ならない。


・大事なのはもちろん結果ではなくその過程なのは言うまでもない。だがもっとも意識すべきはその回路を流れるパルスの"速度"だ。