学歴・階層・差別

 研究室では所属院生や出身者に(特に自らの出身の)大学教員の子どもが多いということが、密やかに時に声高にささやかれる。そのような親の出身階層と学歴の関係性については、(時に怨嗟を込めて)そのような出自をもたないものたちの口々に上ることこそあれども、そのように囁く人びとも実態を数量的に把握しているわけではない。
 SSMの調査票などを元により簡易なアンケートにして親の収入と学歴を主軸に研究室内部と研究科全体および大学全体とで比較して調査したら、噂の真偽も確かめられるだろう。

 ただ実際に提案したらやりたがる人とそうでない人の大分裂が起きるような気がする。個人の特定可能性があるという点で調査倫理として問題があるだろう*1。またあまりにミクロすぎて調査の社会的な意義があまりないという意見もあるだろう。(社会学社会学はあるけれど社会学者の社会学はどうだろう? やはり多くの学問と同じく社会学も自己よりも他者表象のほうに熱心だろうか)

 この他にも実態調査にはさまざまな困難が予想される。けれども、そもそも院生、教員含め自ら社会調査をしてきたものならば、自分たちが調査されることを(嫌がることはあっても)断るわけにはいかないのではあるまいか。


 大学院重点化政策の結果、大学院の大衆化も進んだはずだが、そのような現状に至っても、やはりなお大学教員の子弟は(なんとなく大学院に進学する率は高そうだが)大学教員になる確率までもやはり高いのだろうか? 以文会など同窓会名簿を元に今後30年ほどパネル調査を試みると面白いかもしれない。


 しかし本当に階層と文化資本のほうが重要だという結果が出たとしたら、それはどのような結果をもたらすだろうか。特性=所有物としての資本をもつ者ともたざる者の言外の意識間対立はより深刻なものとなった上で、階層的上昇をはかるものたちの狂騒は激しくなり、結果アカデミズムの(文化資本のと言ってもよさそう)閉鎖的再生産の様式はより強固なものと化すかもしれない・・・そのような大学制度、文化制度は制度自身のよってたつ階級的出自を逆転させるような(それが必ずしも良いと言っているわけではなく、逆転可能なような流動性をもちうるかという点で)自己批判と批判的実践はできるのであろうか。僕はけっこう悲観的です。それが実現される日は大学が大学という名のものでなくなる日のような気がします*2


 そもそも根本的に文化とはそういうものだとしたら? 権力の抑圧や囲い込みの結果でない文化というものはあっただろうか?




P.S.
現在の環境に関して有意識的に見たとして、表題の前二つについては明にせよ暗にせよ存在を感じる機会は多くある。残りの一つについては今のところ特に感じない。けれどもそれはやはり自分が男性で内部でそういう立場を問われる位置にまだ出くわしていないだけであり、いずれそういう日が来るという獏とした予感がある。


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*1:ただしひょっとすると、調査などしなくても、学生支援機構の申請者データを確認するなどして学生たちの状況を把握しうる立場の人たちには、当たり前の事実としてそのような特性に基づく学内の勢力分布が既に見えているのかもしれない

*2:大学が好きな僕自身としてそれは悲しいことですがそれは仕方がないことかもしれません。階層も資本も関係ない学校が必要だとみなが考える時が来たら、そのときにはかたちを変えてまたそのような場所が生まれることでしょう