淡々と描き出されるアル中患者の壮絶さと面白さ

失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2 アル中病棟

 毎日毎日ギャグを考え続けるストレスからアルコールに飲まれ、身も心も壊れた漫画家がたどりついた世界は、アルコール依存症の病院だった。
 一九九八年十二月二八日、漫画家・吾妻ひでおは都内某所のA病院に入院した。精神科B病棟、通称アル中病棟である。その前年から酒量が増えた彼は、少しでもアルコールが切れると手の震えや冷汗、悪寒などが止まらなくなる。幻聴、幻覚もある。隣の家に監禁されている少女の声(もちろん妄想)がずっと聞えるようになった。恐怖感に打ちのめされ、自殺念慮も出る。《恐ろしい。なんか恐ろしいね。恐ろしいと頭で考える自分の声すらも恐ろしいんだよね。》もはや世界は吾妻の敵になっていた。その状態を見かねた妻子の手で、吾妻はA病院に送り届けられたのである。
 吾妻ひでおはSFやナンセンスなテイストの作品で知られた漫画家。可愛い女の子の絵が有名で、一九七九年にコミケで日本初のロリコン同人誌を販売するなど現在の「萌えマンガ」の先駆者とみなされている。彼は長期のホームレス生活を二度体験している。そのエピソードを振り返り二〇〇五年に出された前著『失踪日記』(イースト・プレス)は30万部のベストセラーとなった。失踪日記でも少し書かれていたアルコール依存症で入院する日々をつづった描きおろしが本作である。
 入院してわかった酒の怖さ。そこで出会ったひとくせもふたくせもある患者や医者たち。かわいくて厳しいナースたち。そしてウソのようで本当な病棟でのエピソード。この世の中に少なからず存在するアルコール依存症患者たちが、入院のあいだ、どのように生活しているかが淡々と描かれている。
(この作品は内容の興味深さと同時に、マンガとしての表現も面白い。大きなコマで、突然主人公を俯瞰するような視点で描かれたり、病棟のスケジュールが絵とともにびっしり書き込まれていたり。アップをほとんど使わず、コマにキャラクターの全身が収まるように描くのは吾妻作品共通の特徴だが、その手法がさらに進められている。読者は、固定カメラで病棟の中を覗いているかのような臨場感を味わえる。)

★病棟の人びと
 病棟には多くの先客があり、また後からも次々と新しい入院患者がやってくる。二十人超のキャラクターそれぞれに強烈な個性がある。吾妻と同室になった浅野が強烈な印象を残す。彼は片付けがまったくできず、さらには計画性がないので月の小遣いを支給されるとすぐに使ってしまう。金がなくなると、新しい入院患者に対して寸借詐欺を働くのである。さらに、夜中に病室の中で小便をする奇癖もあり、吾妻を困らせる。
 その他、気性の激しい安藤や、自己中心的な杉野、修道院上がりという謎めいた経歴の御木本、患者から100円ずつせびって貯金し○○○に行く福留など強烈な個性の持ち主が揃っており、集団劇として読んでもおもしろい。これだけ多くの人間を出して、しかも読者を混乱させずに描き分けるのは困難な技であるはずだ。何か劇的な事件でも起きれば別だが、同じ日常が続くだけの入院生活ではそんなドラマは望めない。淡々と生きているだけ。でも、おもしろい。
 彼らに対する吾妻の視線は非常に客観的かつ公平で、いい面も悪い面も余さずに描かれている。だからこそ、各人の違いが際立つのである。もちろん吾妻本人も、小心で裏表があるなど、欠点のある人間として登場する。おもしろいのは、浅野のように困った人物であっても、読み進めているうちになんとなく愛着が湧いてくることである。どこかに愛嬌があると思えてくる。

★アル中病棟とは
 本書は入門書としても読める。アル中病棟はほとんどの読者にとっては未知の場所だが、決して無縁と思ってはいけない。日本の飲酒人口は六千万人程度と言われているが、このうちアルコール依存症の患者は二三〇万人程度であると言われている。飲酒者の二六人に一人がアルコール依存症という計算になり、精神疾患の中でも罹患率が高く、各人の性格や意志にかかわらず誰でもかかる可能性がある病気である。自分からは遠い位置にあるが、確実に地続きにある場所のことを本書で詳しく知ることができる。
 アルコール依存症の入院は衰弱した体を回復させると同時に、患者に意識を改めさせる教育の場でもある。アルコール依存症は一生のものであり、一度なったら二度と治らない。何年も断酒生活を続けている人が、たとえ一滴でも飲んでしまえばその日までの努力は無になってしまうのだ。
 その病気の恐ろしさを知るためのプログラムが多く組まれ、時には外のAA(アルコホーリックスアノニマス)、断酒会など依存症患者の自助グループにも参加を促される。ここでも吾妻の観察眼は冷静で、ポエムのようなことを延々と話し始める司会者、友達がいなくて淋しいのか酒を止める気もないのに断酒会にやってくるホームレスなどを、ユーモラスにスケッチしている。
 統計によると患者は治療病院を退院しても、一年後の断酒継続率は二〇%。ほとんどの人は再入院、もしくは死んだり行方不明になる。再入院も同じ病院は三回ほどで見放される。結局、吾妻はアルコール病棟から無事に退院することができたのか。ラスト数頁の寂莫さ満開の俯瞰ショットは必見だ。ぜひ実際に本書をめくって確かめてほしい。