おもろい奴になるには

 以前、会社で

エスプリとユーモア (岩波新書)

エスプリとユーモア (岩波新書)

を読んでいたら同僚に「この本を読んだらおもしろい人になれるの?」と聞かれた。
 うーん、どうだろ? 著者の河盛好蔵はフランス文学者で、イギリス人の得意な(と、される)ユーモアとフランス人に上手な人の多い(と、される)エスプリとについて論じたエッセイだからなぁ。この本は大変おもしろいが読んだ人がおもしろい人になれるかどうかは別問題、というはなはだおもしろみに欠ける答えを、本人的にはおもしろいことを言ったつもりでしゃらしゃらと返してしまいそう。


 ユーモアとエスプリ(esprit:「精神」とか「心霊」とか「才気」とか「気性」とか「活気」とか実にさまざまな意味のある言葉だけど本書で話題になっているのは「機知」のこと、つまり英語のウィットのことだ)の違いについてぼくはよく分かっておらず前から疑問に思ってはいた。けどそんなこといつも考えているわけではなくて、それこそ頭の片隅に置かれていただけのこと。古本屋でつい目に留まって「オ!」と思ってつい手に取ったもののほかにもほしいものがあったのでちょっと買うのに躊躇していたほどのことだった。
 というこの新書だけど、なかなかどうしてよくまとまっていてぼくの要望に応えてくれた。


 超簡単にまとめると、
 ユーモアは「僕はでくの坊です」と言うこと
 エスプリは「君はでくの坊です」と言うこと


 だそうです。なるほど。


 著者はオム・デスプリ(homme d'esprit)をサーカスの肉襦袢を着た空中ブランコ乗りに、ユモリスト(humorist)をのろまの道化に例えている。道化はぐずであちこちものを壊してしまう。しかし本当は彼らはすばらしく器用なのである。それはふり、なのだ。だからこそわれわれは体操教師の驚くべき敏捷さに劣らず、道化の見かけの不器用さに感心するのだ、と。ふうん、そうか。


 ユーモアもエスプリももちろんコミックの表現であることには変わらない。どちらもコミックの理解を示す肉体的しるしである笑い*1をひきおこす一助である。コミックの主題は国によって異なる。それによってコミックの形もまた変化する。だからフランス人、というよりもたぶんラテン民族はとくにエスプリが好きで、アングロ・サクソン民族はユーモアが好きだという観察が成り立つ。この原則にはあらゆる原則と同じく例外が含まれる。へー。


 では、この国のコミックのかたちとはなんだろう、という問題があるが、この問題は長くなるので次回以降また機会があれば論じたい。


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*1: ぼくの阪大時代、新入生向けのゼミであるとき「笑い」について話題になったことがあって、賢しらな高校生でしかなかった(今も?)ぼくは「それは権力や主従関係を転倒させることですね」と答えたら教官の鷲田清一に「そんなことは当たり前じゃない」と大層つまらなそうに言い捨てられたことを思い出した。当時は「そうか当たり前なのか、それは知らなかった」と若干の反発を覚えただけだったけれど、今考えると「そりゃそうだ」といえる。あまりにもそのままでつまらなすぎるぞ、おれ。自分のお調子ぶりがちょっとはずかしい。